日曜日, 7月 15, 2007



台風接近のおかげもあり、ようやく「近衛文麿『黙』して死す」をざっと読み終えた。終わりに、補遺として「読者の理解を助けるために」ということで、終戦直前のアメリカの政界での対日強硬派と、戦前の中日大使だったグルー一派との争いなども、鳥居氏一流の歴史の読みで挿入されている。

3月28日発行のこの本を、前防衛大臣、被爆地長崎選出の久間氏が、お読みになっていたのかどうかが、改めてこの補遺における原爆投下の経緯のくだりを読むと考えさせられる。

もっとも、産経新聞には、すでに正論欄に、木戸内大臣が、2.26のときのように、天皇に中国撤兵を(近衛首相が何度も要請したのに)奏上せず、自分の保護した陸軍一派が中国で軍事行動を起こしたことを非難されるのを恐れて、開戦を招いた、とか

原爆投下まで日本を降伏に追い込んではならないという方針でアメリカは和平交渉の行くへを二転、三転させたようなことも書かれているので、要職の大臣ならとうに読んでいなくてはならないはずの書物だと思うが、読んでおられず、ああいう発言が出たとしたら、不勉強もはなはだしい、といわれても仕方ないだろう。もっとも本来リベラルといわれるお方だけに、朝日
新聞しかお読みでないのかもしれないが、先日車中で、顔を隠すようにしていたショットが
週刊誌に載ったが、読売新聞のようだった。

ルーズベルト大統領が、近づく中国との戦争を心配して、早く日本との戦争を終わらせようとしたが、その手を打ちだした後に、愛人宅で急死した。


後を継いだ副大統領のトルーマンが大統領となったが、国務省などは対日強硬派は飛ばされていた。後は、国務長官代理の、グルー元中日大使が日本との和平交渉を担当するはずで、日本側も察知し、期待していた。



しかし、グルー国務次官は、原爆反対論者で、早く日本を降伏させるため、日本側が飲みやすい和平案をと迫った。そのため、原爆実験を日本の都市で行いたい一派と、それに乗ったトルーマンから嫌われ、実質的な動きは封じられた。事情を知らない日本側はあせった。

それで、いわゆるノーマンらが所属していた太平洋問題調査会が日本を占領した後の日本処理案で、「国体を破壊する」などというレポートを出したりすることに、過剰な反応をしていた。

なぜ、トルーマンは、グルー、マックロイ、フォレスタル、スチムソンの主張を採用し、一日も早く対日戦を終わらせようとしなかったのか?

トルーマンの相談相手になったのが、ルーズベルト政権の下で力を振るったことのあるジェームズ・バーンスだった。トルーマンを助け7月には事実上の国務長官となった。

二人は以後しばらくの間、会議、演説、そして日記であれ、私信であれ、回想録であれインタビューであれ、浜の真砂ほどの嘘をつき、懸命に原爆投下の意図を隠す秘密をつくった。

二人が早々と決めてしまった秘密は、原子爆弾の世界「公開」実験は日本の都市でおこなう、その「公開」が終わるまで、絶対に日本を降伏させてはならないということだった。

その理由を鳥居氏は、こう書いている。

トルーマンは、棚ぼた式に大統領になり陰で悪口(ミズーリの雑貨屋)を言われていることを承知し、ルーズベルトが、考えた事でもなく、し残したことでもない、何かどでかいことを自分の決断でしなければ、と思いつめていた。

バーンズは、ルーズベルトの心変わりさえなければ、副大統領に指名され、大統領になることが出来たにもかかわらず、自分が馬鹿にしていた男が大統領になってしまった、という運命の皮肉に苦しめられ、これまた、どでかいことをやってやろうと思っていた、とある。

原爆を投下し終わるまで日本を降伏させないと決めたふたりが、陸軍長官スティムソンの降伏勧告案からその第12条、天皇の地位保全の条項を、スティムソンの不在のおり、ポツダムに向かう航海中に削除、バーンズは原爆のことを知らない、日本嫌いのハルに電話し、本土爆撃を強化し、ソ連の参戦を待つようにという言質をとり、爆撃強化の免罪符まで取り付けた。

ところが、トルーマンとバーンズが原爆公開実験を終えた後、ただちに天皇条項を復活させねばならなかったが、そのまま復活させると、二人が何年か先には、部下たちの反対を無視して行った原爆実験が、第12条を削除してまで行った秘密がばれると考え、元の12条とは似ても似つかない表現にしなければならなかった。その仕事は、今度は疎遠にされていたグルーの最後の仕事となった。

トルーマンとバーンズがグルーを排除したのは、彼が日本への原爆反対を繰り返したからだ、という。それでグルー勢力を追放してしまえば、必然的にその後の起用はグルーの反対勢力の対日強硬派となる。

http://critic3.exblog.jp/5383751


では、ノーマン、よくやった。近衛文麿も昭和天皇に続いて・・・と書き褒め称えているかに見えるが、木戸幸一が自分を守るため、開戦の責任を近衛へ押し付け、その仲介を甥である都留重人が果たした、と書いている。木戸が召集令状がきた都留を軍務から開放してやり、東京にいたのでそれが可能であり、近衛の息子は満州にいた。逆であればノーマンであっても、そこまではできなかった、と。

ノーマンがアメリカの捜査機関や議会の調査委員に過去を指摘され、糾弾されるようになって、1957年に死を考えるようになったとき、かれは自分が死においやった近衛文麿と広田弘毅のことを思い浮かべて、自分がしてしまった残酷で無常な仕打ちを後悔したにちがいなかった、と鳥居氏は書いている。
都留重人のことは、ここで記す気にはなれない。

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