雑誌「WILL」8月号のある欄を見て驚いた。「期待」と題する19ページに載せられたコラムである。経済白書の第一回目は経済実相報告と題されていて、その総論で強調されているのは「国も赤字、企業も赤字、家計も赤字」と畳みかける前途真っ暗の嘆き節であった。日本経済の発展を予言した下村治の総論原稿を相談なくあっさりボツにして、赤字強調の総論を執筆したのが、都留重人である、と。・・・
この疑問を解く鍵を提示したのが鳥井民『近衛文麿「黙」して死す』である。
『木戸幸一の「暗躍」を隠して近衛文麿を日米開戦の責任者に仕立てたのは、日本通(軽井沢生まれ)とて占領軍に発言力を持つハーバート・ノーマンであり、その共謀者が都留重人であった。
都留の夫人正子の父、和田小六の実兄が木戸幸一である。ノーマンと都留は根っからの共産主義者としてハーバード時代から密接に親交を重ねた盟友であった。
都留は共産主義の御本山ソ連の日本占領を密かに期待し、我が国に戦後復興は無いと判断したかったのだろう。』と。
児島襄「東京裁判」(中央公論社)では、近衛公は、最初占領軍からマッカーサー元帥の激励を得て、憲法改正案の作成にたずさわることになるが、最初からその意図で訪問したのではなく、元帥の対日態度や自分自身の措置について知りたい意図もあったとみられる、とある。
それがある時点から、憲法改正を頼んだ事実はないとされ、最後になって戦犯リストに加えられた。
「「黙」して死す」では、「東京裁判」の書中でも書かれている、芝浦岸壁に停泊している砲艦上で、米戦略爆撃調査団の質問を受け、きびしい尋問を三時間あまりされるところあたりから始まる。
児島氏は、秘書官の牛場友彦氏の記述を引用して「実にみじめな耐えられない空気の3時間であった。文字通り近衛は打ちのめされた感じだった。・・・」と引用しながら、なお、戦犯にはなるまいとの望みを持ち続けた、とある。
http://critic3.exblog.jp/5383751
「世に倦む日日」というブログでは、E・H・ノーマンを想うー近衛文麿を告発したのはノーマンだった」
とあり、「ハーバート・ノーマン 人と業績」(加藤周一編、岩波書院)の巻末資料として、「11月5日戦争犯罪容疑者画定の資料として、近衛文麿に関する覚書をGHQ政治顧問ジョージ・アチソンに提出」の記事をみつけた(P.306)。近衛文麿を告発したのはノーマンだった。ノーマンよくやった。近衛文麿も昭和天皇に続いて平和主義者の仮面を被って戦争責任から逃げおおせようとしていた。・・・」などとある。
「このノーマンの告発とアチソンの説得がなかったら、近衛文麿の自殺はなく、さらには広田弘毅の判決と死刑もなかった。東条英機は昭和天皇の身代わりだが、広田弘毅は近衛文麿の身代わりなのである。・・・」などとある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エドガートン・ハーバート・ノーマン
では、ノーマンの自殺の項では以下のように出ている。
『同年に起きたスエズ動乱勃発では、現地の平和維持と監視のための国際緊急軍導入に功績を残し高い評価を得たものの、都留重人を取り調べたFBI調査官によるアメリカ上院における証言によって共産主義者との疑いを再度かけられ、1957年4月4日にカイロで飛び降り自殺を遂げる。』
私の7月4日投稿の中には、副島隆彦氏の「冷酷な事実にたちむかうために知っておきたいこと」で、
太平洋問題調査会をもっと研究しなければならない。・・・岩波書店系進歩主義の元祖でマッカーシーに追いつめられて自殺した日本史研究家のハーバート・ノーマンもここのメンバーでした。・・・と引用した関係で大変興味のある内容である。
鳥居民氏の研究ではどうか?
「本書で論じるのは、木戸・ノーマン史観である。」で始まる。前述の砲艦上での3時間にわたる尋問こそは、ミニ戦争裁判であった、とされている。
「この二人は、アメリカ占領軍首脳とアメリカ政府に、事実を大きく歪曲して自分たちがつくった1941年、昭和16年の歴史を信じ込ませた。そのあと、木戸とノーマンが隠そうとしたこと、誤魔化したことに多くの人びとは疑問を持つことなく、それらを率直に受け入れてしまったために、やがてひとつの定説的な史観ができあがっと、と続く。
「定説おじさん」の事例をみるまでもなく、「定説」とされるものは、たいがい誤魔化しや単純化のプロセスが潜んでいるものである。
近衛が東京湾でアンコン号と言う上陸作戦時の指揮艦上で、屈辱的な取り調べ(ミニ戦争裁判)を受けたのは、ノーマンが告発したわずか4日後、11月9日である。牛場友彦も同席している。
このとき、すでに近衛は、尋問相手側が、戦前の日米交渉史に無知で、しかも昭和16年9月6日の午前会議を取り上げ、(日米)交渉に期待をかけているように見せかけて、開戦のための準備を進めるためだった、と主張するのを聞いて、近衛公はすべてを悟った。牛場は近衛の態度をみて、公爵、公爵(どうなされましたか?)と二度も声をかけたという。その御前会議では、10月半ばまでアメリカと外交交渉を行い、交渉に見込みがなければ、開戦のための準備をおこなう、という決定だった、という。微妙ではある。
無知なはずの人が、日本でも50人ていどしかしらないはずの御前会議の内容を、近衛公を戦犯へと追い込む手はずの尋問を厳しく、かつ強引になされた周辺事情や裏事情がくわしく書かれている。もちろん、ノーマンも知りえないことだ。だれがあの御前会議の重要点を大きく歪めてアメリカの諜報機関に売り込んだのか?
近衛公の頭の中に、彼を売った顔が浮かんだ。その顔は彼に向かって、おれが死んでたまるか、死ぬのはお前だと言ったのである、とまで書かれている。
帰りの車中で、近衛公はやられた、やられたと言った。・・・尋問官にではない。牛場にもその顔ははっきり浮かんだのである。表紙の写真は、時と場所はちがうのだろうけれど、この時の情景を連想させる意図で選ばれたと想った。
「車中の近衛はなるほどそういうことかと思ったはずだ。牛場が外務省を訪ねても吉田(茂)は会うのを避けるようになり、私にも連絡を取ってこない理由がはっきりわかった。かれは私の運命の行き先を嗅ぎ取ったのだ。」
対して、木戸幸一へのアメリカ側の尋問は軍艦内などではなく、かなり丁寧な言葉遣いで、ありきたりの形式的な尋問で終わっているそうだ。
児島著「東京裁判」では、12月6日に近衛、木戸ら貴族院関係者にも逮捕命令が出た、とある。外務省からの連絡を受けた近衛は「猛烈に相手に電話口で怒鳴った」そうである。この相手はだれだったのか!?。
渡部昇一教授は、近衛公が服毒自殺を遂げず、東京裁判で彼の周囲で開戦を煽った人物名を挙げてほしかった、と指摘している。しかし、近衛公は、帰りの車中ですでに、牛場秘書官に対して、「黙」を貫くと告げたのではないか、と鳥居氏は書いている。渡部教授は、東京裁判否定派なのだが、・・・。
また、晩年近衛公は、自分は天皇制の下での共産主義者たちに操られていた、と告白さえしていると、渡部氏は指摘している。最近の雑誌などでの断片を総合すると、日米開戦を切望したのは、米ソ両国、蒋介石、毛沢東だとはっきりわかる。小室直樹氏は、日本政府が低能だから、とよく指摘されている。近衛公は、黙して死ぬ以外にはなかったのかもしれない、伝統的美学の世界にあっては。
http://www.melma.com/backnumber_45206_3602099/
中国ウオッチャーで著名な宮崎正弘氏もこの鳥居氏の著作をとりあげ、感想を述べておられる。
『・・・・スターリンがカナダ経由で送り込んだ第二のゾルゲが、ひょっとしてノーマンであったかも知れない。
だから戦後、カナダ外務省から特派され、強運なことにマニラで日本上陸を準備していたGHQ幹部らと知り合った。そのノーマンの生半可で出鱈目な日本史の知識さえ、GHQには新鮮に見えた。GHQは、ノーマンが日本語に堪能なことにも注目し重宝するという最悪の誤断をしてしまった。
ところがノーマンは大東亜戦争の責任に内田良平や頭山満らを加えていた。かれらが戦時中、すでに死去している事実さえ知らなかった。
このころノーマンはソ連の諜報機関とコンタクトがあった、とされる。
やがてマッカーシーの赤狩りで、共産主義者=ノーマンの正体が暴露され、1956年に赴任先のエジプトで飛び降り自殺。都留のFBIへの供述が遠因となったらしい。
都留重人はこのあたりのことを自叙伝にそらとぼけた書き方をしている、と鳥居氏は言う。
しかしノーマンは、そのメチャクチャな論文のすべてが邦訳され全集が日本ででている。カナダでは殆ど誰も知らない外交官が、日本では戦後の平和ボケの時代に希有の人物となって戦後史の一部をいまなお飾っている。
嗚呼、“不思議のくに、ニッポン”(ポール・ボネ)
カナダの外務省は、いまだにこのエドガートン・ハーバード・ノーマンに関する多くの機密文書を封印したままである。』
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水曜日, 7月 11, 2007
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3 件のコメント:
こんばんは~。
昨日から札幌~小樽に仕事で出張してきました。
小樽は古い石造りの建物が多く、運河や海も近く、風情があってなかなかいい街でした。観光ではないので、ゆっくりできずとっても残念でした(^^;
今日の小樽は日中17℃ぐらいでした。東京は25℃ぐらいだったのでしょうか、やはり戻ったら途端に暑さを感じますね。
今日の小樽は小雨でしたが、かなり久しぶりの雨らしく、水不足が心配のようです。一方、九州は大雨で困っているというのに、なかなかうまくいかないものですね。
東京もまだしばらく雨の日が続くようですね。土日のいずれか少しでも太陽が見えると嬉しいんですけどね~。
以上、出張レポートを兼ねて久しぶりのカキコミでした♪
こんにちわ~、コメントありがとうございました。
私も20代以来小樽などは行っていませんが、また走りたいですね。山の中で、缶詰ガソリンもきれて、残り二リットルぐらいでスタンドを見つけ満タン給油。
そしてしばらくしたら、2サイクルなのにノッキング、しばらく続くと直り、いいかな~と思うとまた、それが次回の給油まで続きました。
先日バイクが不調、トップ70キロぐらいでガクガク、ブスブス、あれリザーブに切り替える時期かと思いきや、まだ満タン後数十キロ走行。
バイク屋さんと相談の結果、キャブの水抜きをおこなう。進行方向の最右端のキャブからは、流れ出る液体が、あきらかに二段階に分かれて落ちてきた。やはり水かも。
キャブ4個について、もったいないと思いながらも、排出。
すぐ走行してみたが、今一不安定だが、低速での不安定は最初から。それで、アイドリングで回転計の針が揺れて安定しない。
本日は、雨が日中ふらないので、軽く20キロほど昼間に流してみたが、70キロあたりでは極めて安定、加速も鋭く感じて、音も心なしか凄みがでたように感じた。
しかし、ここのところ、毎日車通勤なので、より新鮮に感じるのかも。
一週間に土、日ぐらいしか乗らない人には、天気がよければ、乗りたくてたまらないでしょうね、^^;)、sho様。
こんにちわ~、コメントありがとうございました。
私も20代以来小樽などは行っていませんが、また走りたいですね。山の中で、缶詰ガソリンもきれて、残り二リットルぐらいでスタンドを見つけ満タン給油。
そしてしばらくしたら、2サイクルなのにノッキング、しばらく続くと直り、いいかな~と思うとまた、それが次回の給油まで続きました。
先日バイクが不調、トップ70キロぐらいでガクガク、ブスブス、あれリザーブに切り替える時期かと思いきや、まだ満タン後数十キロ走行。
バイク屋さんと相談の結果、キャブの水抜きをおこなう。進行方向の最右端のキャブからは、流れ出る液体が、あきらかに二段階に分かれて落ちてきた。やはり水かも。
キャブ4個について、もったいないと思いながらも、排出。
すぐ走行してみたが、今一不安定だが、低速での不安定は最初から。それで、アイドリングで回転計の針が揺れて安定しない。
本日は、雨が日中ふらないので、軽く20キロほど昼間に流してみたが、70キロあたりでは極めて安定、加速も鋭く感じて、音も心なしか凄みがでたように感じた。
しかし、ここのところ、毎日車通勤なので、より新鮮に感じるのかも。
一週間に土、日ぐらいしか乗らない人には、天気がよければ、乗りたくてたまらないでしょうね、^^;)、sho様。
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