水曜日, 7月 18, 2007



神田の古本屋街で、グリューネ・シュトラッセだかアベニュというところにライカカメラが並べてあった。
長方形の移動可能の花壇に一面に芝生のみを配している通りである。

数年前とほとんど変わっていなかった。驚いたのは、一眼レフタイプが13万からあったことで、M3クラスが古くても16万以上と健闘していることで、虚栄の虫が命じるままに触手を伸ばすとすれば、やはり戦後の名機のほうへ気持ちが動く。


何年か前、友人がニコン一式を売り払って、ライカの一眼レフを買った、といってみせてくれたが、その時もなんで、一眼レフなんか買うの!?と思ったものだった。だって、中味は国産ではないですか、レンズもボディも(旧ミノルタ)。それがいまや、13万からある。箱入りのライカM2Rは、今でも45万のお値段が誇らしげについていた。・・・ブレッソンの展覧会をぜひ見てみたいと改めて思った。使い手を選ぶカメラだという感じがする。赤瀬川先生みたいに、一、二台所有すると、取材旅行などぜひしてみたくなるカメラであることには違いない。単なるスナップで終わらない奥深さを覗くような気がする。


本日の講演会は、満席に近くかってない盛況であった。選挙戦さなかだし、当然か!?司会は東大文Iの一年生君がしてくれた。

最初に、加瀬英明先生が挨拶をのべられ、慶応大学で福沢諭吉について講演した際、独立自尊精神の大事なことを述べたが、質問にどっちがより大事かと問われ、自尊と応えた話しをされた。自尊精神があれば、国はかならず独立しますと。現在、軍事的隷属が天与であるかのごとく錯覚してしまっている現状では、独立国とはいえないと。

アメリカでの慰安婦問題なども、実体が無い問題は、結局は日本自身が招いたものだと、宮沢氏、河野氏、村山談話などのことに触れた。最後は戦争体験を風化させてはならないと。自らの歴史を尊ばない姿勢から
招いた事態に警鐘を換気した。サンフランシスコ講和時、戦犯あるいは戦犯であることは、なんら「汚名」ではない時代で、人口8000万前後の当時、日弁連が主導して、戦犯への恩赦や遺族への年金支給などの問題に4000万以上の署名を集めたことなども触れられた。戦争体験者が一番多い時代であったにも拘わらず、と言う部分も強調された。

次いで遠藤講師は、昭和27年当時、外務省の条約局長は、この条約は、東京裁判を継承するものではなく、その各個の刑期をかってに日本政府が単独で左右してはならない、ということのみを拘束するものであると、繰り返して答弁した。それを一度も否定していないのに、後藤田氏と当時の条約局長がかってに、東京裁判全体をを受け入れたものだと改めた(後藤田史観)。そういえば、文I御出身の法学部助教授(といっても駒場の)の経歴の参議院議員、舛添先生も、最初数年前は、東京裁判を「受け入れて」しまった以上、何を言っても国際信義に反する、というようなことをテレビで臆面もなく言ってのけ、私は耳を疑った経験がある。



小泉内閣の後に続く阿部内閣では、戦後のこうした問題を整理する課題が与えられていると。戦後のあやまりの第一歩は、占領政策が180°変わりダレスによる日本再軍備提案があったとき、吉田首相が拒絶した振りをしてしまったこと、という。にげたつもりでも、一説に銃剣でおどされ、日米安保の前身文書に、単独署名させられた、という話しもあり、ニクソンもかって、占領政策の初期の誤りを認めた。ある意味で大国といわれ得る国が、国防を全面的に他国に依存するなどということは、あってはならないことと考える、とニクソンは述べている。

つくる会の藤岡講師は、南京事件について話され、0(回)、20(万人)、26(人)、143(葉)、300(回)の五つの数字を上げられ、市民をふくむ大虐殺は無かったとした。

最初は毛沢東は、ただの一度も、南京事件について触れたことがなかった。

安全区からの外人団体(15人)から、日本軍への食糧配給要求人数は、20万人で、12月17日に戦いがおわり、27日までの記録をあげたが、ずっと20万人のまま。

安全区では、記帳をもうけ、一切の苦情を書き留めた。そこで26件の殺人報告があり、目撃事例はマギー神父の一件のみ。後は伝聞。しかもこの時期、停電で、夜間は日本軍兵士は外出禁止令がでていたのに、殺人報告数の2/3は夜間に起きた、としているという。

盗まれたもので、もっとも多いのは壁時計だというから、これも日本軍の一部兵士が、腕時計ならともかく、壁時計を盗みますかね?と笑われた。日本軍は、皇族が司令官におられるので、盗んだものは出来える限り返還するよう兵士に通達を出している。レイプなども見つかれば憲兵隊に処罰される。

南京大虐殺とされる数千枚に及ぶ写真があるが、それを縛りこんでいくと元は143葉の写真にたどりつくという。それを精査すると、すべて、当時の南京(冬、12月)に当てはまるものがないという。

最近わかったことは、台湾で見つかった極秘資料の中に、南京事件をはさんだ一年間に300回の中国政府の記者会見資料があり、ただの一度も南京事件を報告、非難したものはないという。日本軍の誤爆などは大騒ぎしているのにである。伝聞で、外国人が2万ほど殺したと言っている、と言う話しがあるそうで、中国側はそれを問題にしていないという。


それで、虐殺数についての、秦・渡部論争は、しろうとの観に頼った渡部教授の見解が、ほぼ正しいように思ったが、事実は小説よりも奇なり、とはこういうことをいうのではないか?
今でも、テレビで、半藤氏などと秦氏は、虐殺がないわけがない、あったに決まっているなどと発言されているが、批判された体質は変わらないようだ。しかし、秦氏は多方面に活躍され、渡部氏の批判を踏まえて
おられるように思う。

タイム誌に、書名入りで2万人ときろくされているが、ティンパーリなどが、身分を隠して単なる外人記者として英文で欧米向けに捏造データを発信したらしく、この辺の構造は、今でも慰安婦、南京映画などの制作と連なっている。




つくる会の内紛は、慰安婦、南京問題を教科書でちゃんと取り上げるか、そこを避けるかの違いらしく、
どうも靖国神社の記述を書き換えるよう、外務省OBの岡崎氏が動いたり、アメリカの一部の策動も感じられる。

この講演でほぼあきらかになったことは、南京事件はアメリカが裏で策動して、将来の担保として動いていたのではないか、という疑惑が生ずるからである。最初2万(戦死者!?便衣兵!?)としていたものを、日本降伏まえ、20万人としてアメリカが熱心に報道を始めた。原爆への免罪符の意味もあるだろうが、それは付け足しで、麻薬販売で財ををなしたルーズベルトの日本大嫌い、中国は好きと言うスタンスは、彼にかぎられるものではなく、アメリカの一部に今も巣くっている白人のコンプレックスの一部ではないか、とも思える。

ブッシュ大統領などは、流鏑馬見物をされたが、公式記録にはないが、小泉首相と一緒に靖国へ行きたい、として外務省が大慌てで変更させた、という。加藤議員などは、アメリカが靖国問題で、小泉首相がこだわることに不快感を示し始めた、などと言い出したことがあったが、それを言ったという議員は、そうは言っておらず、彼の秘書が韓国人で対日強硬派なので、そういうことに触れた、程度だったらしいが、加藤議員はかなり、その点については鋭敏なお方だったということになる。


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